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  • 「妻を迎えて赤門・母の隠居で成巽閣、十三代斉泰」<274>

    2014.12.15

    「妻を迎えて赤門・母の隠居で成巽閣、十三代斉泰」<274>

    (12/15)

     

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    12月5日、飯田橋のメトロポリタン・エドモンドホテルで公益社団法人日本医業経営コンサルタント協会の主催で私の前会長慰労会が催され、現役員と退任役員、事務局の方々が出席していただき盛り上げていただいた。

     

    12月12日に金沢経済同友会のふるさと塾で「妻を迎えて赤門・母の隠居で成巽閣、十三代斉泰」と題して、東四柳先生の講義を石川護国神社でいただき、その後、「成巽閣(せいそんかく)」を見学した。

     

    「妻を迎えて赤門」とは、十三代前田斉泰(1811~1884)が11代徳川家斉征夷大将軍(1787~1837)の21女「溶姫」(1813~1868)を正室に迎え造ったのが「赤門」(東京大学)である。

    赤門には前田家のご紋「梅剣鉢」と徳川家のご紋「三つ葉葵」が残されているようだ。

    また、赤門は前田藩主の上屋敷であった10万坪の屋敷に造られた。

    他に中屋敷(駒込)6万坪、下屋敷(板橋)21万坪があった。

     

    「母の隠居で成巽閣」とは、斉泰の父、十二代藩主斉廣(なりなが1782~1824)の正室「真龍院」(鷹司隆子1787~1870)のために斉泰が造営(1863年)した奥方御殿。

    十三代藩主斉泰の実母は真龍院ではなく父・斉廣の側室の子である。

    真龍院は、前田藩主に嫁いだ初めての公家(京都鷹司家)であり、斉泰や慶寧は真龍院の影響を強く受けたと思われる。

    鷹司家の御殿が「辰巳殿」と呼ばれていた事や「辰巳用水」が庭園を流れ、言葉に縁が深く、加えて金沢城より「巽(たつみ)」の方角にある事から「巽御殿(たつみごてん)」と名付けられた。

    大政奉還、王政復古を経た明治7年に斉泰は今日の「成巽閣」という名に改めた。

     

    激動の幕末、前田家において京都、朝廷との関係に真龍院が果たした役割は計り知れないものがあった。

     

    「十三代藩主前田斉泰(なりやす1811~1884)」

    前田斉廣の側室から嫡男として生まれる。

     

    45年間にわたり藩主を務める。

    5代藩主前田綱紀が78年間藩主をつとめたので二人で加賀藩(1583利家入城~1871廃藩置県、14代慶寧)288年間のうち約半分の123年間つとめたことになる。

    斉泰は藩政の面で目立った実績はないが、地域密着型の人物で、能楽な和歌を愛し加賀藩の伝統を引き継ぐ重要な役割を果たした。

    また、斉泰が国元に戻った際、金沢近郊でタカ狩りを楽しみ、神社仏閣の参拝によく出向き、藩校にも顔を出していた。

     

    1853年には異国船に対する海岸防備のための視察で能登全域の海岸線を見て回った「能登巡見」がある。

     

    斉泰の時代に起きた事件。

     

    1852年…銭屋五兵衛が捕まる。

    1854年…洋式兵学校「壮猶館」が設立。

    1858年…金沢大地震。

    1859年…コレラ大流行。

    1864年…「禁門の変」が起こった際、慶寧が無断で京を出る。

    加賀藩の尊皇派が処罰される。

     

    講演後に「成巽閣」を見学する。

    「謁見の間」には古いインド製絨毯、欄間は檜の一枚板に花鳥を透かし彫りし極彩色の岩絵具で彩られたもの。

    「亀の間」には、障子腰板の亀の絵があり床の間より一枚毎に数が増えている。

    「松の間」の書院障子の腰板にはオランダ渡来の硝子絵が嵌め込まれている。

    また、柱の無い長さ20メートルの縁側は2メートル間隔に組み入れた松材が梃子の原理で屋根を支えている。

    階上の「群青の間」の群青(ウルトラマリンブルー)は鮮やかだ。

     

     

    写真…フィンランド・クリスマスツリー(12/13ホテル日航金沢)

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