2025/09/05
「演説の極意について」<660>
9/4、第64回TKC北陸原点の会に5回目参加して来ました。
今回の、高橋宗寛和尚の講話は、「演説の極意について」でした。
大乗仏教の教典の中に「金剛般若波羅蜜多経(金剛経)」というお経があります。
ある時、お釈迦さまが、弟子の須菩提(しゅぼだい)に、千人以上もの大衆の前で演説するときの心構えについて説きました。
経文によれば「云何為人演説。不取於相、如如不動」
とあります。
現代文に翻訳すれば「どのようにして、人のために演説したら良いのですか」との問いに対して、「相(そう)を取らなければ、如(にょ)の如く不動なのだ」とお釈迦さまは答えています。
私達が人の前で演説する場合、よほど馴れた人でもない限り、人の数とか、人々の眼とか、人の顔付きとか、その場の雰囲気とか、
会場を支配している熱気とか、いろいろな要素(それを相といっています)の影響を受けて、のどが渇いたり、足もとがガタガタ震えたり、声が震えてしまったり、思うことが半分も言えなかったりしてしまうのではないでしょうか。
それは、お釈迦さまに言わせると、眼や耳や鼻や皮膚や、はたまた自分の観念などから取り入れた諸要素に、自分がかき回されているからだということになります。
相(そう)を取らず、というのは、そういう諸要素を自分の心の中に取り込まない、ということなんですね。
眼で見たら見たきり、耳で聞いたら聞いたきり、鼻で嗅いだら嗅いだきり、皮膚で触れたら触れたきり、心の対象としての観念をもったらもったきりで、それらに更に自分の心の方から
、おまけを付け加えない。
別言すれば、それらの諸要素に自分の心を占領させない、ということなんですね。
ここに演説の極意があるのだ、そうすれば、心は如の如く不動なのだ、というのです。
如のごとく、というのは真如のごとく、という意味でしょう。
絶対の真理のように、微動もしないものなんだよ、とまことに親切に解明してくれているわけです。
人間は先入観や固定観念にとらわれ、新鮮に見ることができない。
「今ここ我」なのである。
(写真)
1、9/4 TKC北陸原点の会案内書
2、9/2 アルプ第30回懇親ゴルフ表彰式で古賀会長のエイジシュート祝い。
(私はダブルペリアで93人中18位)
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