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2015/08/25

「碁聖、本因坊道策と秀策の地を訪ねて」<299>

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8月17日~19日に広島県尾道市因島の秀策囲碁記念館、島根県大田市馬路の道策生家、世界遺産・石見銀山、出雲大社を訪ねた。
このツアーは日本棋院の主催で、同行した指導棋士は佃亜紀子五段(金沢「石心」主宰の佃優子先生の妹さん)。
参加者は東京、大阪、名古屋、新潟、金沢などから19名。
金沢からは熊谷さん、中山さん、谷口さん、福島夫妻と私の6名。
岡山駅からバスで出発し、山陽自動車道~しまなみ海道~尾道自動車道~松江道~山陰自動車道~尾道米子自動車道~中国自動車道~岡山自動車道を通り、岡山県、広島県、島根県、鳥取県をぐるっと回遊し、また、ガイドと添乗員の名調子で楽しく過ごせた。
囲碁は中国で生まれ、七世紀に日本に伝わり日本文化として根付いた。
「枕草子」の清少納言(966~1025)や「源氏物語」の紫式部(970~)も囲碁が登場している。
江戸時代に囲碁の世界を席巻した棋士が道策と秀策である。
第四世本因坊道策(1645~1702)…350年前の江戸時代。
7歳の頃から囲碁を習い始め、習ったことに答えられないと、母が裏の井戸に連れて行き、頭から冷水を浴びせたと言われています。
13歳の時に江戸に出て、囲碁の四大家元の一つ「本因坊家」に入門。
内外に敵無く、13段の実力があったと言われている。
年に一回行われる御城碁(江戸城の将軍の前で行われる碁)において十四連勝し、33歳の時に第四世本因坊に就任するとともに、「名人・碁所」に推挙された。
平成16年に日本棋院において実施された第一回特別囲碁殿堂表彰において、満票で殿堂入りが決定した。
本因坊とは、戦国時代末期、京都寂光寺の僧で日海という碁の名手が現れ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。
家康は日海を江戸に招き、名人碁所に任じ50石を五人扶持を与えた。
日海は寂光寺の一搭頭の名、本因坊を号とし算砂と改名したのが名称の始まりであり、以後、昭和の初めの第二十一世秀哉まで続き、秀哉没後は選手権の名称となっている。
現在は、第二十五世本因坊趙治勲。
道策(幼名山崎三次郎)のお墓参りもさせていただいた。

 

 

 

第十四世本因坊秀策(1829~1862)…200年前の江戸時代。
秀策は因島に生まれ、「150年来の天才碁豪」と言われた。
わずか9歳で日本最高峰の本因坊家に入門し、20歳で第14世本因坊跡目を継承。
御城碁では空前絶後の19連勝無敗という偉業を成し遂げるも、34歳の若さで亡くなった。
母の訃報から百日の精進に入り椎茸だけを食べていたことで体力が落ちていたところにコレラにかかった。
それにもかかわらず本因坊家の人びとの看病をして彼自身が倒れたのである。
因碩との対局での妙手「耳赤の一手」は伝説となっている。
見学先の記念館で、「碁ランテア」の方と交流対局をしていただいた。
佃亜紀子先生から色紙をいただいた。
「楽未央」…楽しみ未だ尽きず。
石見銀山遺跡「龍源寺間歩」では1万歩かけて散策した。
出雲大社では「島根県古代出雲歴史博物館」を佃亜紀子先生とともに観覧した。
また、「八雲そば屋」で食べた「三種そば」も美味しかった。
有意義な囲碁ツアーでした。

 

 
写真…19日鳥取県、蒜山(ひるぜん)道の駅で。

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プロフィール

名前
木村 光雄
資格
税理士
認定登録医業経営コンサルタント
情報化認定コンサルタント
趣味
囲碁とゴルフ
座右の銘
「この道より我を生かす道なし、この道を歩く」

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