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  • 「維新のバスに乗り遅れた加賀藩」<289>

    2015.05.15

    「維新のバスに乗り遅れた加賀藩」<289>

     

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    金沢経済同友会から「石川県って、こんなとこ」という新装版が出版された。

    石川県の歴史、文化、暮らしが100話で構成されている。

    その第54話「混迷の幕末、大藩鳴動す」の内容は次の通り。

     

    ペリー来航以来、幕末の日本では、尊皇、佐幕(幕府を支持)、攘夷(外敵と戦う)、開国のさまざまな思想が入り乱れ、さらに公武合体論(天皇と幕府が結びつき反幕府勢力を抑える)が台頭してきた。

    加賀藩では開国攘夷・佐幕、平たく言うと、開国するにしても幕府を中心として外敵を追い払うべしという意見が多数であった。

    こうした中、元治元年(1864)2月、13代藩主 前田斉泰(なりやす)に代わり世子 慶寧(よしやす)が禁裏守護(京都御所の警護)のため上洛することが決定。

    幕府は朝廷の命による加賀藩の京都出兵を阻止しようとしたが、慶寧は従わなかった。

    加賀藩が幕府の意に逆らったのは、これが初めてのことであった。

    そのころ、朝廷をめぐって尊皇攘夷派の長州藩と公武合体派の薩摩・会津・桑名藩が激しく対立していたのである。

    慶寧は幕府に対しては、長州藩の要求する内容のうち一つでも許して面目を保つように訴え、長州藩にたいしては朝議に従い撤退するよう忠告した。

    しかし、7月17日の朝議により長州藩征伐の命が下ったことから、長州藩は19日に京都御所を攻撃した。

    これが「禁門の変」である。

     

    万策尽きた慶寧は、疾病を理由に帰国の途についた。

    8月11日に慶寧付家老の松平大弐は、責任を取り、慶寧一行を見送った後、宿所の正行院において自刃した。

     

    慶寧は金沢に到着したが金沢城に幽居され、加賀藩の尊皇攘夷派は一掃された。

     

    その後、斉泰は隠居し、慶寧が最後の藩主となった。

    明治元年(1868)正月に起きた鳥羽伏見の戦いで、加賀藩は幕府方として出陣したが、徳川方が敗れたことを知ると、朝敵となることを恐れ、一転して官軍となり北越戦争に出兵した。

     

    藩祖・利家以来の「お家大事」の意識が、こうした日和見主義につながり、「維新のバスに乗り遅れた加賀藩」となったのである。

     

    加賀藩は歴史の波に翻弄され、明治二年(1869)には「加賀藩」は「金沢藩」と名称が変更され加賀藩の歴史は終焉した。

    明治四年(1871)廃藩置県により「金沢藩」は「金沢県」となった。

     

    初代県知事の内田政風(薩摩出身の士族)は「金沢県」を「美川県」に変更しようとしたが、政府は石川郡からとった「石川県」とされ「金沢県」には戻らなかったのである。

    政府は朝敵や日和見藩には山や川の名や郡名を使い、旧藩時代の名称や城下名を採用しなかったとの説がある。

     

     

    写真…ハマナス(5/6鞍月パーク)

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