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遊魚動緑

  • 「父・木村喜作の生涯」<358>

    2017.04.15
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    ここのところ、「家系図」を作るべく資料収集をしている。

    父・「喜作」について、その足跡をたどってみた。

     

    ・1899年(明治32年)1月4日…父・「喜作」は「木村吉光」と後妻「中村せ津」の長男として松任市茶屋町(現・白山市)で生まれる。

     

    その年には、父・「吉光」と先妻「いへ」との間に生まれた次女「為」(13歳)、吉光と後妻「せ津」との間に生まれた三女「すなを」(3歳)が居た。

     

    吉光と先妻「いへ」との間に生まれた長女「つき」は11年前の明治21年に5歳で亡くなっている。

     

    ・1901年(明治34年)に喜作の弟である次男「友一」が生まれる。

     

    ・1905年(明治38年)に喜作の弟である三男「友作」が生まれる。

     

    父・「喜作」は3男3女の長男で生まれたことになる。

     

    ・1905年~1911年…松任高等小学校。(卒業時12歳)

     

    ・卒業後「行商銀行」に就職

     

    ・1917年4月…国鉄に就職。(18歳)。

     

    ・1922年11月…「三日市駅」助役。(23歳)

     

    ・1923年3月…父・「吉光」67歳で死去。(24歳)

     

    ・1925年4月…「津幡駅」助役。(26歳)

     

    ・1927年3月…能美市岩内から白山市美川町の「北市屋甚六」に養子にいった「森田六三郎」と「北市屋つね」の間に生まれた長女「森田静子」(21歳)と結婚。(28歳)

     

    ・1927年4月…結婚の翌月、「美川駅」助役になる。(28歳)

     

    ・1928年9月…長男「昭雄」誕生(白山市松任町在住)。(29歳)

     

    ・1929年3月…「金沢駅運転掛」に。(30歳)

     

    ・1931年1月…長女「敏子」誕生(大阪府寝屋川市在住)。(32歳)

     

    ・1933年6月…母・「せ津」67歳で死去。(34歳)

     

    ・1934年9月…次女「道子」誕生(2002年死去)。(35歳)

     

    ・1936年3月…「筒石駅」駅長。(37歳)

     

    ・1938年に三女「富子」、1941年に「春雄」が誕生するが、それぞれ同年に死去する。(39歳、42歳)

     

    ・1940年3月…「市振駅」駅長。(41歳)

     

    ・1943年1月…三男「光雄」誕生。(44歳)

    生まれた市振(いちぶり)は親不知(おやしらず)の一つ手前の駅。

    難所を前にした宿で松尾芭蕉が一句詠んでいる。

     

    「一つ家に 遊女も寝たり 萩の月」

     

    ・1943年7月…勳八等端宝章受章。(44歳)

     

    ・1944年3月…「関山駅」駅長。(45歳)

     

    ・1948年3月…「黒井駅」駅長。(49歳)

     

    天皇陛下先導役をつとめる。

     

    ・1949年3月…「二本木駅」駅長。(50歳)

     

    私・光雄が中郷小学校1年生から5年生の時に居た駅舎。

     

    中郷小学校一年生(1949年4月入学)の担任は秋山光雄先生。

     

    一年生の「教育連絡簿」を見ると、「行動の傾向」と「学習状態」はすべて「中」。

    言ってみれば普通の子供。

     

    「れんらく」の先生評には、「真面目に勉強するが、落ち着きが足りない様でございます。

    好んで級の為に働き、たいへん素直なお子様です。」

     

    二年生~四年生の担任は、江崎美智子先生。

    五年生の担任は大塚正先生。

     

    中郷小学校と二本木駅官舎付近は「私の心の故郷」だ。

     

    スイッチバックの二本木駅と日本曹達二本木工場あたりが遊び場、遠足で筍狩りに行ったり、七夕祭りの飾りを小川に流したり、豪雪地帯なのでスキーで通学したり、運動会などの行事には駅長の父が挨拶に来たり、兎を級で飼っていたが私が与えた牛乳で亡くなったり、予備隊(自衛隊の前身)の車から出るガソリンの臭いを嗅いで追っかけたり、ターザンごっこをしたり、「カバヤキャラメル」のマークを見ておまけを当てて競ったり、パッチやメンコで友達と遊んだり、アイスキャンディーの棒でピストルをつくり輪ゴムを当てっこしたり、漆で顔中かぶれ包帯をして学校へ行ったり、小学校の丘にある小川未明の詩碑も懐かしい、スキー長距離走の宮尾辰男選手はオリンピックに出て村の英雄だった、厳しい父だったが文房具を買いたく駅舎に小遣いをもらいに行ったらすんなりくれたり、可愛がっていた仔犬「ポリ」の死、遅くまで遊んで父から家に入れてもらえなかったが母が別の戸からそっと入れてくれた優しさ、水飴と紙芝居、いただいた御菓子を分からないようにホジって父からこっぴどく怒られたり、父に連れられて出掛けたが私が溝に落ちて引き返すはめになったり、父の遣いでラーメン屋へお金を貰いに行き食べたラーメンの味、同級生の山崎くん・石黒くん・品川さん・大久保さんはどうしてるかな~。

     

    学校が楽しかったのか、父が厳しかったのか、麻疹の公欠2日を含め5年間を無遅刻無欠席を通したのはかけがえのない思い出だ。

    この習慣が高校までの13年間を無遅刻無欠席に繋がる。

     

    ・1954年4月…国鉄を定年退職。(55歳)

     

    父が故郷である石川県白山市松任町に帰ったため、私も松任小学校に転校した。

     

    六年生の担任は村田一典先生。連絡簿には7月~8月に先生と父の交信が残っている。

     

    村田先生…「読む事は大変よい。近頃ようやく転校になれて身の入った学習をするようになりました。

    もう一度復習するとまだまだ伸びると思います。」

     

    父…「遠く離れて学校を移り気候風土習慣なども大変異なっておるであろうし困ることもあると思いますが、子供だけにあまり気に懸けていないので幸いです。

    日を追って慣れるに随い友僚と親しむに伴い真剣に落ち着いて復習するのを待望しているのです。

    先生に御迷惑とは思いますがお気付きの点、時折り御知らせ願いたい。」

     

    父は定年後、鉄道弘済会金沢営業所(現・キヨスク)を8年間、大友楼(駅弁)に7年間勤めた。(70歳)

     

    ・1978年(昭和53年)4月7日…逝去。(80歳)

     

    没後叙位叙勲…正七位・勳六等瑞宝章受章。

     

     

    父の定年あたりで北陸新幹線の要望が出てきている。

    2年前の開業を見たら感無量だったろうな。

     

    父は背中で私に多くのことを遺してくれた。

    厳しかったが、勉強せいとか大学に行けとか言わなかった父。

     

    父が亡くなってから40年になろうとしているが、私は父を心から尊敬しているし、父の子供であることが誇りである。

     

     

    写真…石川県庁の桜(4/8)

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